ものわすれ、っていうけど


「うちの人、私に同じこと、何度もいわせるんです。」

さまざまな人がクリニックに来られるけれど、これって診察の最初にでてくる対話の、よくある出だし。でも、なかなか難易度の高い、悩ましい訴え。


ぼくが小さいころ、親から「さっきもいったでしょっ!どーして、そうしないのっ!」と怒られる。ぼく。そういうの多かった。(まあ今もあるけどね。)まずは言い訳。「えっ、さっき言った?」と、とぼけた顔で。するとさらに怒られる。ぼくの方も怒られている最中に、言われた内容をうっすら思い出す始末。でも気づかないふりする。で、あれこれやり取りがあって、最後追いつめられ、ぼくは「でも、さっき、そういうふうにはいっていないじゃん(ぼくは湘南ボーイ。だから「じゃん」と自然に出てしまう。)!」、形上、とりあえず逆切れのていで。最後の抵抗。すると、さらにさっきのに上乗せして、「どおーーして、あんたはそーーなのっ!!!」。すさまじい気迫。なにかの大会の競技かと思えるようなすばやい動作で、その大音量な声と同時にスリッパで頭、はたかれる。で、ぼく。泣く。お決まりの流れ。


で、くだんの「うちの人、私に何度も同じこといわせるんです。」の話。これって、はたから見れば同じ姿かもしれないけれど、心の動きはいま書いた話とは違う。でも、そう言いたくなる気持ちはわかる。ちょっと脱線。ぼくが尊敬する、まささんの書いた文章(クリックすると見れます)があります。認知症、「不便であるが不幸でない。」、というんです。ぼくにとっては、闇夜の中の松明たいまつのような言葉。「うちの人、私に同じこと、何度もいわせるんです。」という質問に対して話そうとするときに「まささん、という人がこういった」ってオマジナイのように認知症の本人に唱えます。もとい!


で、(専門的には、遅延再生障害、というんだけれど)「さっきもいったでしょっ」っていわれても本人の中には、その記憶の痕跡すらない。マジに「えっ、さっき言った?」なんですよね。でもつい、追い込むほうは、そんなこと、つゆ知らず追い込むもんです。その状況を想像を膨らませて、リアルにイメージしてもらえますか。まずは、言われた本人の反応を。ふたつの反応が予測できますね。ひとつはいかりです。もうひとつは悲しみですね。深すぎる悲しみ。つまり絶望を感じる人もいるでしょう。本人からすれば、理不尽なことを言われ続けられる。その裏にある気持ちは誰もが想像できる。もしそうであれば、当たり前なのですがこの点において、認知症の人は正常です。そういう状況に陥っても、もし怒りも悲しみもなければ、それこそ「症状」でしょう。(この症状の話も大切なのでいつかはします。)しかし言う側からすれば、「なぜ忘れてしまうのか」を直感的に理解できない。そして「さっき言ったでしょ!」とどうしても言わずにはいられない。「さっき言ったでしょ!」と言ってしまう人も正常ですよね。つまり言われる本人の心の状況を理解できなければ、自らの経験をもとに「そういうときにはそういうものだ」という反応するのが「人」ですのでね。そういった意味で、言う側も言われる側も正常なのです。理由も説明せずに、単に「そう言ってはいけません」などと指摘すれば、言われた方は「なぜ悪い、どこが悪い」と言うに決まっている。それはどっちの側の人にも言える。だって「人」だもの。でもさあ、そう言われ続ければ、本人の顔は苦悩で歪む。言う側も怒りで顔が歪む。だからこの話は、ぼくの子供の頃の話と同じではないんです。遅延再生障害、って専門的に言われ、それって認知症における代表格な認知機能の状態。それだけに多く直面する問題。
さて一旦理由を説明すれば、この状況はだれもが理解できるはず。でも理解できても、そうできないのが「人」。そう言ってはいけない、って「わかっちゃいるけど、やるんだよ」ね。


でね、「物盗られ妄想ですね、はい、薬」って。たしかにおとなしくなる薬を飲めば物盗られ妄想はなくなる。こういった場合の「逆切れ」もなくなる。あっ、書きながら気づいたけれど、この「なくなる」って表現も危険がいっぱい。根っこからなくなっていないよね。薬によってなくなったんだよね。そして、その反応だけ見れば正常なゆえの反応だったのにね。そういう理不尽な解決方法。それが家族の救いになることもある。でもそういう正常な反応を「奪った」という自覚ってあっていいと思う。大げさだって思うかもしれないけれど。すごくなぐる、ける、暴れている人々を沢山みてきて、そういえばもう十年以上前の話だけれども、ぼくも無自覚にそういった薬を使っていたこともありました。日本にまだそういう人々に対する薬の使い方のガイドラインも何もない頃。普通の量(「普通の量」を正確に言うと、その当時は統合失調症に対する適用で、そのルールにおける初期量のこと)でも、体力がなくなっている人に副作用が意外に出る。それから副作用についてはしっかりと診なきゃ、と思った。ずいぶんと注意するように使うようになった。そしたら「あれっ、全然少ない量でも効くじゃん」(この「効く」というのもクセモノだけれど、今回はあまりこだわらずに使います。そのうちまた説明します。)と気づく。で、自分の処方に酔いしれて無批判に、だから10年前くらいまでかな、使っていました。いまもどうしてもそれに頼らざるをえない時があるけれど。でもね、自戒の念をこめて、読んでいる人に、このことをお伝えしたい。家族は喜んだとしても、やっぱ自覚することは必要、って思う。でも、自覚したからって処方してしまえば、同じなんだけど・・・。ふと、10数年前、そういうおとなしくなる薬のおかげで「これまでの生涯言ったことのないような『ありがとう』って言った」って涙を流して喜んだ家族もいました。はじめのうちはよかった。でもその後に、本人の身の上に起こった副作用で、はじめは喜んでいた家族が、後になって泣いた、という話もありました。副作用にはとても注意が必要です。薬は何でもそうだけれど。体が虚弱になっている人にはなお。効いたからって(だから、この「効く」の使い方も危険がいっぱい。)、その後も家族は良かれと思い、漫然と飲ませ・・・続けてしまったんだね。薬の良いとされた点だけに目を向けた結果です。飲むのならとても注意して飲んでいただきたい。ぼくら医師は作用と副作用をバランスで考えるしかない。どういう注意が必要かなど、ネットで探してもらえると、あちこちに書いてあると思います。あるいはよく主治医に聞いてね。これについては、別途、いつか書こうかと思います。


いま、認知症。うちのクリニックですら、一人で悩んで受診する時代。それだけに「障害を受けた脳の患者」としてでなくて、「認知症とともに暮らしている『人』」を基に考えることが求められている時代。認知症医療とは誰のものか。でも、この当たり前のビジョンですらときどきすっ飛んでしまう。ぼくも、ともに来院する家族が危機的状況であれば、(当然副作用の説明はしますが、で、少量で、できるだけ短期だけれど、そして薬は厳選しますが。)おとなしくなってもらう薬を出す。でも、そこそこ長い間、いろいろと認知症につきまとっていたぼくにとっては、最近の認知症医療の進歩とは、おとなしくなってもらう薬の使い方ではなくて(必要なときもありますが)、『人』のこういった考察ができるようになった、ということなんだろうと思う。


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