認知症に効く、っていうけど その3


ちょっと前の話を整理。

で、なにかで議論するなら、同じ言葉ならせめて同じ意味のことをみんなで思ってますよ、といえるぐらいには言葉を整理しましょ、という話。あっ、思い出した!ぼく、大学生のころ、喫茶店で友達と「てんのうせい」の話をしていた。


「んーー、縁遠いよ、な」

「まあな、本当の姿なんてみることって難しいしな。」

「ぼくらにどんな影響があるだろね。」

「影響たって、なにやらその影響要因てなもんは、潜在化して、気づかないよな。」

「んー、まったくだ」

「あっ、そうだそうだ、ごめんごめん、勘違いしてた。惑星かどうか、って話してんだよな。天王星じゃなくてさあ、冥王星だ、冥王星」

「なに、おめえ。制度の話してんじゃねぇーのか」


って。

もうおわかりだろうけど。ぼくは天王星。ともだちは天皇制について語ってた。けっこう、意外につじつまあって、あとになって感心した。

でも、そんなことめったにあるもんでない。だから、ある単語があったら、手を抜かずにある程度ちゃんと意味をお互いに決めておかないとね。話がひっちゃかめっちゃかになる。前回は、そこで「これってさあ、認知症に効くんだよ」の「認知症」ってなにか、って考えた時に、それだけじゃだめだね、という話になった。「認知症の〇〇に効くんだよ」ぐらいの、〇〇をお互いにどれかひとつ決めておく必要がある。

「認知症の〇〇に効く」って3つプラスアルファある。

そういえば、このアルファ、前回よりふたつ増えました。大切なものを前回おとしてた。反省。でももっとあるかもね。

〇〇って、次のような感じ。

1. 認知機能の低下
2. まわりの人にとってやっかいな状態
3. 自分自身のあたまのすっきり感、飲み心地

交絡要因(介在することで結果に影響する要因)として

a. 体調
b.
c. 人間関係
d. 環境

そういえば、a.b.c.d.は変化できるものに限定しています。効いたとか効かないとかの議論なので。つまり相手を変えようとしている話なのだから、こちらも変化できないとね。こちらが変化しなければ相手も変化しないよ。で、変化しないもの。たとえば、その人の性格とか自分史とか住んでいる環境とか人間関係に影響を及ぼすけれど、自分史なんてさあ、過去のものだし、タイムマシーンがなければ変えようがない。意外に性格も変わりにくいものでもあるよね。だからここでは、性格とか自分史とかは、抜き。絵をかきました。

ninchisyo

そういえばさあ、結構前にどこかに「脱水を治せば認知症が治る」、という表現がありました。(うろ覚えだけどね・・・。)大事な話なんだけど。この表現はちょいと端折はしょりすぎ。受け止め方がちがう。なんてことが生じやすい。そうしたら話し合いにならない。脳の萎縮が脱水を改善したからって、ふっくら、もどるわけではない。同様に元来その人の有する認知機能が改善したのではない。思い出せばわかる。お受験とか学校の試験とかだ。認知機能に介入するには、つまり、通信簿を良くするのに必要なのは、神頼みや薬なんかではない。みんながよく知っているのは予習復習、つまり訓練だ。試験前ガンガン徹夜する。でもたいして脳は覚えてくれない。そんなもんです。そこでね、そこで仮に「脱水を治せば認知症が治る」の「認知症が治る」の意味を、だ、認知機能が改善する、ととってみよう。どうなるか。これをお受験生に当てはめてみる。つまり、脱水の受験生を見つけて、脱水をよくすれば認知機能が改善する、ととれてしまう。本当にそうなら、世の受験生の苦しみはない。一回脱水になってから水とれば成績が上がるのだ。それってありえないでしょ。だから、そういう意味ではないのです。なので、表現を端折はしょると、うっかり勘違いする人がいるのでね。ぼくみたいに。気をつけてね。で、もとい!脱水が改善する。本当は認知症の何がよくなったのか。ぼくの経験だけれど、それは体調だ。もうちょっと正確に言ってみれば、そもそも持っている認知する能力に脱水のせいで雲がかかった、と理解するのが合理的だと思う。脱水をよくして雲を消す。するとその人の元来の認知機能が垣間見かいまみれる、といった塩梅あんばい。だから脱水を治せば認知症が治る、とかだと、まだ雑、と言わざるを得ないのだ。この話は「脱水をよくする」だとわかりやすいのだけれど、別の働きかけになると、存外難しくなる。目がくらむ。思考が停止する。なんだかいつの間にやらしっかりとした証拠もなく「これって認知症に効くんだぜ」とあちこちに言い始める。あーー、この「しっかりとした証拠」をまた説明したい。英語の論文に載ったからって、それが真実、とは限りません。こんなアタリマエのことを、なぜか活字とか英語だと、正しいかのように思えてしまう。この事例は山ほどあげられる。でも、「しっかりとした証拠」について書き始めると、また長くなって、飽きる。だから、機会を改めます。
でもさあ、「しっかりとした証拠」がない、としたら、だね、かつ、自分の思いをなにがなんでもゴリ押しで「正しい」と主張したいとすれば、どうするか。そー!逆に曖昧にしてしまったほうがいい。ごまかすにはこれに限る。「これってさあ、認知症に効くんだよ」と言い続ければいい。一人二人信じてくれれば、ねずみ講みたいにどんどん信者を増やすことができる。増えると意外に、「これってさあ、認知症に効くんだよ」、で突っ走れるよ。さらに信者は増える。ちょっと皮肉めいて書いているけれど、この手法、世の中に腐るほどある。ぼく自身もすでにひっかかってるだろうな。自分の気づかないところでね。だから、「自分はひっかかりたくない」、と思うのなら、「これってさあ、認知症に効くんだよ」を、一旦足を止めて、考えなおすんだね。それしかない。でも、簡単なようで、なかなか難しいよ。認知症に限っていえば、そういう、ふわっとした話、たくさんあるのに、なぜか大勢の人々は、金科玉条きんかぎょくじょうのごとく信じている。このブログでそういうことも、少しづつがしていけたらいいな、と思う。
で、また結構長くなった。前回の続きを書こうと思ったら、その準備で終わってしまいました。人生ってそんなもん。どうかご寛恕を。今回はこの辺にシトーございます。


カテゴリー: 認知症の考え方
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  1. […] 違いは、Aのところで、「中等度」か「明らかな」。Bのところで「自立性に対する能力」が障害されているか否か。のようだね。Bは観察に基づくものなので、判定する医師としては、もわもわする。はっきりできない点で。医師には、少なくとも、診断は、誰がやってもブレないようにはっきりさせたい、って本能みたいなものってある。 この「誰がやってもブレない」って大切。あっ、ときどき「正しい診断・治療は俺にしかできない」って人がいる。そういう先生、その他の医師あるいはせめて専門の医師が共有する同じ概念で話し合いができない、ということでもあるよ。でもさあ、うまくできていて、そういう先生、「専門医にはかかってはならない」とも言うもんで。「なるほど、そうくるか」って感心すらしてしまう。まあね。自らの選択肢を間違えないための考え方を、ブログ「認知症に効く、っていうけど」とかその前後のやつ、に書いたよ。なので、もとい! […]

  2. […] まえのブログで、「認知症に効く、っていうけど」シリーズで書いたとおり、認知症予防、ってなにか、ということも同じように考えなくてはいけないようである。なぜって?それは、あなたにも、提供する側にも言葉が足らないのである。だからあなたの思っている予防、と、予防できるんだといっている人々の考えている予防、それが、はたして同じものかどうか、わからないのだ。空気を読めって、言われるかもしれない。でも、上のエピソードの主人公は、空気を読んだ結果なのだ。 […]