周辺症状、っていうけど その3


周辺症状、てなもんは、理屈上、ない、というのはよいとしても、それでは、

「周辺症状とは、脳の変化と直結しない症状」

をどう考えるか、という話。つまり、脳の変化以外って何か、って話でしょ。でね、便利なものがあるんです。
トム・キットウッド、っていう人が考えたんです。


$$D=P+B+H+NI+SP$$

D; manifestation of dementia (認知症と生きる姿)
P; Personality (パーソナリティ)
B; Biography (生活史)
H; Health status (健康状態)
NI; Neurological impairment (神経の損傷)
SP; SocioPsychology (社会心理)

Tom Kitwood; a dialectical framework for dementia, p267-282 clinical psychology of aging. Wiley 1998

脳の変化以外って、言い換えれば、このNI以外、ということでもあるよね。たくさんあるね。
パーソナリティ、って、まあ、性格、その人の雰囲気、そんな感じでしょうか。生活史って、その人が過去、どーだったか、ということ。
難しいのは、社会心理、という言葉。たぶん、トム・キットウッドっていう人が考えたのかなあ。で、定義探したけど載っていない。なものだから、ぼくなりの考え。小さく言えば、人間関係。大きく言えば、文化。そんな、その地域の人と人とが織りなす、形はないんだけど、人に対する認識の仕方。だめかね、そんなんじゃ。たとえば、やせてて、おめめ、ぱっちり、にあこがれる、とか。デブは嫌だとか。その地域の人がおおかた、そう思っているとする。そういう目に見えない、人に対するそんな認識の仕方。たとえばさあ、認知症に対する偏見、っていうのも、その源は、ここでいう社会心理だね。小さいところでは、AさんとBさんがいて、お互いに無二の親友だと思っているとか。逆に、同じ空気も吸いたくないとか・・・・。まあそんな感じ。
で、
このトムキットウッドの公式が教えてくれたこと。それはつまり、周辺症状と思っている現象(めんどうなので、以下、周辺症状)は、どうも、NI以外に、目を向けないといけない、ということ。


でね、じっと見ていると、ひとつ気づく。変えられるものと、いまさら変えられないものがある。過去は変えられない。だから、生活史は不変。性格も、以前、といってももう、25年ほど前。認知症の論文を手伝ってた時に、いつもなかなか変化しない項目として、性格の尺度がありました。で、それ以来、性格を変えるって、どういうことなんだろう、って思ってた。仮に、変えられるとしても、経験的に、なにか劇的なものが必要。人の死、自分の恐怖、などなど、すごく大きなこととか。あるいは逆に、目に見えないような日々の積み上げ。でもそれって難しいよね。で、それに比べて、わかりやすいのは、健康状態。痛いとこがあると、誰でも不機嫌になる。気分がいいって、健康状態によって決まる部分が大きい。痛いところがあれば、その痛み、とれれば、ずいぶんと気持ちが楽になるね。あとは、さっきから難しい言葉の、社会心理。性格に比べれば、人間関係って変化しやすい。認知症の偏見っていうけれど、もし、メディアが、頑張ったり、認知症に関わる企業が、運動をすれば、意外に変わるもの。


そういう風に思いえば、周辺症状って、それを構成するものが、その人のキャラやその人の過去の蓄積、健康状態だったり、人間関係。つまり、いまの人間関係や健康状態、その人のキャラ、生活史、プラス、神経の損傷が修飾する形で、周辺症状なるものを生んでいるんだね。でさあ、それって「症状」か?って思わない?で、周辺症状を変化させよう、と思うのなら、健康状態と社会心理を変えろ、ってことなんだね。「人」として考える、パーソンセンタードケア、という言葉の生みの親らしく、トムキットウッド、えらい。あっ、パーソンセンタードケアって、日本語にするのなら、「その人」中心のケア、という意味ではなくて、「人」中心のケア、って意味だよ。まあ、どういう訳にするのもいいけれど、できるだけ近い日本語がいいね。


健康状態をみる、ってことは大切、っていうことは、まあわかりやすい。でも、人間関係についていえば、それは、それは難しい。このブログの、これから書こうとは思っている、「診療風景」の大半は、きっと、そのことに触れていくんだろうと思う。人の数だけ、物語がある。なぜなら、その分だけ、人間関係の姿がある。で、周辺症状、という言葉から脱却できるときに、はじめて、トムキットウッドがいった、パーソンセンタードケア、という言葉に近づくんだろうね。


カテゴリー: 認知症の考え方