認知症に効く、っていうけど その6


おっ、その5,の続き。なにか、っていうと、

「これさあ、認知症の、まわりの人にとってやっかいな状態、に効くんだぜ」

の巻。


「認知症に効く」、って話、「認知症が治る」、って話、実はこれが多いのでは?あっ、これって、つまり、「まわりの人にとってやっかいな状態」がよくなる、ってこと。でさあ、脳の神経伝達が良くなって活動的になることと、周りの人間にとって”都合の良い人”になること、って別だと思うんだよね。だって、怒鳴る、言い訳を言う、ゴタゴタからむ、って脳の働きじゃん。でも、世間では、ごっちゃにしていない?薬の効き具合も、「まわりの人にとってやっかいな状態」がよくなることを軸足にすると、そんな都合の良い薬なんてありゃしない。そういう見方って落とし穴がある、って思うんだ。わけて考えたうえで、どうするか、を考えなくてはいけないって思う。そんな雰囲気の内容は少しは「周辺症状、っていうけど」であちらこちらで触れておきました。


でね、怒鳴り散らす人に、おとなしくなる薬使うと、本当に、よく効くんだよね。(ただし、せん妄の人に対してではないよ。せん妄って、意識レベルが低下している状態だよ。この見極めが大切。そしてそこが難しいところなんだよ。まだちゃんとした見極めの方法について記述をみたことがない。もしかして、いまだに職人的な技術かも。どうにかなるといいんだけどね。)借りてきた猫のようになるね。そして、生涯言ったことのような「ありがとう」なんて言うよ。びっくりする。でも、いまは、周囲の人にとって、よい、ってことは、その人の、生き物としての能力に対して、よいこと、とは限らないと思うようになった。ぼくも、別の医者のことを糾弾出来るだけ、美しい医療をやってきたわけではない。反省してる。だから、この文章も自戒の念を込めつつ書いています。少しでも不幸が減るように。ある意味で、在宅医療で、そもそも、介護保険法の施行と同じ頃なので、認知症、って、ともかくひどい状態。つまり、殴るケル暴れる、なんて、ふつうの時代。ともかくおさえなきゃ。ってことで、かなり、いろんな種類の薬を使った。で、だんだんそういう薬、使い慣れていくうちに、なるべく副作用のでない、効果はあるような薬を選んで、そこそこ少ない量で大きな成果あげられるようなる。まあ、何事も訓練だね。(医師に向けて言うけれど)たぶん、だれでもできるよ。はやく到達したければ、処方した人の様子を毎日みればいい。診られなければ毎日電話でもいい。短い期間でたくさんのことを知ることができる(はず)。でもね。このことを胸を張って「これはすごい方法だからみんな真似をするように」って言うつもりは、今はまったくない。本当にこれっていいの?、とは思うけど。でもそのときは薬を飲んだ本人は、殴る、蹴るは落ち着き、「あっ、どうもありがとう」なんて言うんだよね。そのときは、ぼくも自分のことを、腕いい医者って思った。馬鹿だねぇー。目の先のこと以外は考えていなかった。で、人類が何百万年前に誕生したか知らないけれど、薬って、たかだか数十年の実績しかない。薬で、すべてが丸く収まるって、この世の中、そんなに甘くはなかった。そのうちに能面のように表情はなくなり、よだれが出てくる。飲み込みが難しくなる。手足が出づらくなり、転びやすい。あるいは、なぜか、じっとしていられなくなる。これって、専門的には、アカシジア、っていうよ。ふと気づくと、そうなっている。あーっ、って思って薬をやめる。なぜか、そうしても、殴る、蹴るもしない人間になっている。でも、そういう症状、錐体外路症状っていうよ、不思議な事に、それは戻らない。以前のハツラツさはもう戻らない。ひととしての感触が薄らぐ。いまのぼくとしては、「周辺症状の治療」って、家族間でどうしようもないときに、最終的に判断されるべきなんだ、って思う。まっさきに選択すべき治療ではないよね。そもそも、以前書いたとおり、周辺症状ってあるかって。最悪なのは、薬で目下の殴る蹴るを抑え、家族の笑顔が出たって。それで、認知症が治った、って言ってしまうことだと思う。ひととしての感触が薄らぐ、っていいことなの?なにが正しいか、って答えがないでしょ。だったら、マニュアルなんて作れないよね。ひととしての問題になってくる。当然、人を考えるときにマニュアルはない。目の前の方法論ではなくて、その方法論を支える考え方に興味が移るよね。そこまで抽象化すれば、きっとみんなが共有できる考え方ってみつけることもできると思う。まあ、薬の適否について、アンチョコなんてなくて、いちいち考えなければならない、ってことでしょうね。


でね、この話は、「認知症に効く」=「認知症の、まわりの人にとってやっかいな状態、に効く」としてしまうことのリスクでもあるんだと思う。「周辺症状」と呼びたくなる家族の気持ちもわかる。本当に疲労困憊の家族を見ると胸が痛くなる。だから、ぼくもそういう薬使うことがある。でも、家族と本人の対立構図があるときに、医療が、本人の味方でなくなってしまったら、ぼくは、なんのための医療か、がわからなくなる。医療って家族を救うためにあるのだろうか。家族は大切なのには変わりがない。でも、家族と本人、どちらか一方を選択するなんてありえるのだろうか。もし、家族のための医療があるのなら、その医療は、本人にとってなんなのだろうか?

あっ、ところでふと、思い出す。ねぇ、薬物拘束の英語って、chemical restraintっていうらしい。英語では、drug restraintって言わないらしい。薬って投薬される当事者にとって、価値あるものの時にdrugって言って、同じものでも害がある場合には、chemicalって言うことなんだろうね、化学物質拘束かあ。薬のそういう使われ方って、drugの名に値しない、ってことなんだろうね。いま言った、人を選別する医療って、そんな感触。選別された人にはmedicine。選別に漏れた人にとってはなんだろね?「これさあ、認知症の、まわりの人にとってやっかいな状態、に効くんだぜ」の話は、そんなオチ。


カテゴリー: 認知症の考え方