もの忘れ、っていうけど その2


もの忘れ、かのようにみえる遅延再生障害。

でも、もの忘れか?って話、のつづき。
で、前に書いたけれど、ここでは、ある典型的な状況を書いている。
いろんな問題を細かく描くと、大変になる。
そこんとこ、よろしく。


でだ、

「さっきいったでしょ!」と子供が怒られている最中。
実は親がそういっていたことを、そーっと思いだし、子供はシラを切る。
そのことが親にばれて、最後には、子供が殴られる。

的な光景って思い浮かびますか?

遅延再生障害があると、そんな感じになりがち。
一般的には、時を経て、この物語の「親」は「子」になり、「子」は、認知症になった「親」になるけど。

あっ、意味わかる?
具体的に描こう。
単に、子と親を変えただけ。

「さっきいったでしょ!」と親が怒られている最中。
実は子がそういっていたことを、そーっと思いだし、親はシラを切る。
そのことが子にばれて、最後には、親が殴られる。
(まあ、親を殴るのは一般的ではないけどね。でも、ぽかって小突く、ぐらいの表現がいいかもね。よく、ぼく、みるんだけどね。)

でも、親子が入れ替われだけで全くこの話は同じなのか?
この物語は、子供の視線で書かれているよね。

認知症になった親の心にある風景はちがう。

どこが違うのか。

「子供はシラを切る」の部分。

親子が入れ替わっているので、ここでは

「認知症になった親はシラを切っていない」のだ。

でも、周囲(「子」)の目線は、

「シラを切」ってるかのように感じてしまう。

なぜか。

我々は、そういう世界に生きてきたから。

人間、似たような能力の人々と集まり、生活をする傾向にある。

些細なミスをみつけて、指摘したくなる。

そういう世界。

なんでだろうね。

自分と同じものを求めたがる本能ってあるのかね。

意見の違いが些細であればあるほど、人間関係がこじれるってあるよね。

より強烈に、等質であろうと、生理的に思うのかね。

認知症を、ぼくは、知ることで、自分の住んで生きた世界をちょっとづつ相対化できるようになってきた。

いい人であるべきだ、と他の人に要求してもしょうがない、ってわかるけど、思わず、それを相手に求めてしまうもんなのかな。

他人なんか、めったに変わりっこない。

自分が変わるしかないのに。

あっ、もとい。

そうそう、でね。
それぞれの認識をまとめると、
認知症の親は「思いだそうとしても、言われた覚えがない。」
でも、周囲(この場合「子」)は、その親は「そーっと思いだしシラを切ってる。」って感じている。

「もの忘れ」の語感、って、「覚えたはずなのに~ぃ、あー、なんだっけ!」的な感じがある。

でも、遅延再生障害、ってそんなんじゃない。

本人の感覚からすると、「言われた覚えがない。」のはずなんだ。
だから、それって、もの忘れか?って感じしない?
にもかかわらず、本人の心に共感することなく、周りは「絶対!さっき、ちゃんといった」という気持ちでいっぱい。
人間、そこまで条件がそろうと、どうしても、相手は「シラを切」ってるって生理的に感じてしまうものなんだろね。


その裏で、認知症の人は、ひとり、自分の存在不安を抱える。
つづく。


カテゴリー: 認知症の考え方
もの忘れ、っていうけど その2” への1件のコメント
1 Ping/トラックバック のために "もの忘れ、っていうけど その2"
  1. […] 先に示した、親子の話。 […]