もの忘れ、っていうけど その3


憧れの、藤田和子さんから、コメントもらった。
なんと、ぼくと、同じ学年。
うらやましー っしょ。

「そうなんですよね。
物忘れとかいう単純な感覚とは違う。」

ありがたい。


でね、この話って、いきつくとこ、そういうことなんだと思う。

たとえば、老化によるものわすれ、と、認知症によるものわすれ、が違うってな話。
よくあちこち、書いてある表、あるじゃん。

結婚式で、なにを食べたかを忘れるのが、老化によるものわすれで、
結婚式で、食べた事自体をわすれるのが、認知症によるものわすれ。

ってやつ。
しってるでしょ。
あれ。

でも、ね。

あのように、外から説明した感じで、理解したつもりになっちゃあー、いけないんだ、って最近思う。

なにせ、われらが藤田さんが書いているように、「違う」っていうんだから。

これって、あれだよね。

コーヒ飲んだことない人に、一生懸命、コーヒの味、説明するの、無理っしょ。

たぼこ吸ったことない人に、たばこって、どう?って聞かれても、説明しようがないしょ。

やっぱ、キャビンよりもメビウス?、っていわれても、理解できない。無理っしょ。

感覚的に経験ない、ことって、伝達できない。

クリスティーン・ブライデン、っていう、人。

オーストラリアの認知症の人。

認知症でない状態と認知症である状態を、認知症になると、ふたつの状態を知ることができる。
的な話があったと思う。

これは、すごいこと。

ふたつの世界観を経験できる、って、認知症について、こんなに力強い言葉ってめったにない、って、知った当時思った。

でね、また、世間では、「認知症を正しく理解しなくてはいけない」、って、専門職の人々が講演会などを通じて、よく言っているよね。

気持ちはよくわかる。

でもね、「認知症を正しく理解する」って、こういう話を通じて、考えると、すっげー、難しい、って思う。

そして、このこと。正しくは、認知症にならないかぎり、知り得ない。

しかも、人によって、その状況が違う。

(というか、同じ、という保証はないから、そう思う。こういうのって、難しくは、クオリア問題って、いうんだろうね。クオリア、って、ウィキに、「心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。」ってあった。ふぎゃー、っていう感じの日本語だけどね。)

だからといって、認知症をテーマにする限り、「正しく理解すること」を諦めるわけにもいかない。

なにもできなくなっちゃう。

ここは、どうにか、言葉を尽くすしかない。

感覚的に、似た体験や代替するものがあれば、別なんだけどね。

そんときは、それを組み合わせて、それを足がかりして、どうにか説明する。

バターと醤油とご飯まぜて食うのって、うまいっしょ。

それ自体、食べたことがない人でも、バターと醤油とご飯をばらばらに知っていれば、それって、なんとなく、想像できる。

そういうテーマなら、バター醤油ご飯の味はクオリア、っていったって、
バターを食べた時のクオリア、とかは、いじらないで済むし、
どうにか想像の範囲内。

だから、ぼくは、当事者研究、が必須で、重要だと思うのです。

本人同士が紡ぐ、認知症の体感、についての言葉。

ぼくらは、耳を澄まして、聴くしかない。

ホントの具体を知ることは、難しい時、ってどうするか。

そういう話を、総括して、理解できるように、抽象度を上げる手がある。

すると、言葉にできる、ときがある。

ここまで、書いていたら、長くなった。


遅延再生障害の内的風景。つづく。


カテゴリー: 認知症の考え方