もの忘れ、っていうけど その4


この、よくある話。
この話を言葉にすると、次のように格段に難しくなるけど、
考えなくてはいけないなあ、って思い始めてます。

で、
この一件からわかったのは、

「自分の存在」って、
自分がもっている、自分についての見当識と
他者がもつ、自分についての見当識(と思う自分の認識なんだけど)
とが一致している、と思えると安定する。

たとえば、
いま、ぼくは、好物の、はまぐりを、しかも、みんなの分も取り上げて、一人で、うまそうにたべている。

それを目の前の人が、こいつ、はまぐり、よほどすきだな、よし、今後たくさんごちそうしてやろう、って思う。

あっ、はまぐりっていっても、おおきいやつね。
そこんとこ、よろしく!

で、そういう空間であれば、なんの問題もなく、自分という存在は、安定している。
まあ、解説はいらないよね。

それが、ずれたときには、自分にとって、「正しさ」探しが始まる。

つまりだ。

いま、ぼくは、嫌いな、しらたまを、しかも、みんなの分も取り上げて、一人で、罰ゲームだと思って、無理やりにたべている。

それを目の前の人が、こいつ、しらたま、よほどすきだな、よし、今後たくさんごちそうしてやろう、って思う。

ぼく、えっ?、ってなる。

ぼくは、しらたま、なんか、一生いらない。

しらたま、を漢字に変換するために、「しらたま」って打ってスペースキーを押す気力すらおきない。

それほど、きらい。

たまたま、罰ゲームで、嫌々、食べさせられているだけ。

自分の自分に対する認識が、他者と違うから、
ぼくは、そいつにいう。

「ちげーよ、しらたまなんか、くいたかねーよ!」
「これってよーぉ、罰ゲームだかんな!」

って。

もし、それでも、目の前の人が、それを無視するかのように、
こいつ、しらたま、よほどすきだな、もっと食わしてやれ、
って確信していたら、たぶん、ぼく、暴れる。

まあ、はまぐりとか、食べ物の事例で、いうことでもないけどね。

振り返って、遅延再生障害。
(ここでは、すべての認知症にともなう認知機能低下を説明していない。典型的な、認知症にまつわる、よく目につく、遅延再生障害の話、だからね。そこんとこ、よろしく!)

先に示した、親子の話

最後には、親は子を殴るけれど、自分の存在までは、脅かされない。

親が持つ子の見当識は、子のそれと一致している。

仕方がない、ととるか、このやろー、ととるか、はいろいろ。

その先、家を出て、せいぜい、グレる程度。

一方、認知症の親と子の会話。

こっちの、試練は、グレる、を超える。

親本人は
「思いだそうとしても、言われた覚えがない。」

でも、子は、
「そーっと思いだしシラを切ってる。」
って、なんとなく、思っている。

「そうに、ちがいない」って。

  • 「思いだそうとしても、言われた覚えがない。」
  • 「そーっと思いだしシラを切ってる。」

は、ともに、命題なので、正しさ探しはできる。

面倒なのは、それぞれが、「逆」の関係。

一方の真偽は他方とは逆になる、ということ。

共有できる真実は、どちらかしかない、っていうこと。

自分が、正しければ、相手は、間違っている、っておもいこまなければ、やってられない。
自分を保つために、徹底抗戦。切れまくる。

まあ、こっちのほうが、子は、困るけれど、認知症になった親は、自分の存在は、安定する方向に向かう。

でね、ところで。

いままでの認知症医療は、家族側の立場。

世話をしていると思っている子の立場。

子から見たら、なぜ、親がぶち切れているのか、は理解できない。
つまり、「親は常軌を逸している」って、子は思っている。

ここ10数年間、医療現場には、子のこういう悩みが殺到。

子の悩みは、本人が、縷々説明。

当時、無垢なぼくは、んーー、なるほどぉ、それは大変だあ、って。

子にとっては、ぼくは、いい、お医者さん。

親にとっては、最悪だけどね。

おとなしくさせる薬を処方する医者って。

処方される側からすると、なんだろね。

ひどい医者だね。

なものだから、医学的には、こういうのを、周辺症状とかBPSD、っていってきた。
(もうそろそろ、反省の時期かね。)

不穏興奮、暴言暴力、脱抑制、・・・。

原因が、それだけではないにせよ。

薬の副作用とか、体調不良が、重なれば、もっと、激烈に過敏に、反応する。

そうなると、おとなしくなる薬を考えたりする。

誰を?、って、認知症の本人を。

そう、この話、むごい話なんです。

でも、これまではそうだったんです。

いまも、ひどくエスカレートすると、薬を出さざるを得ない。

でないと、殺人まである。

ないところから、「症状」を見出す。

そして、その「症状を改善」する目的で、薬を出す、っていうパラダイム。

そういうパラダイムが、たしかに、求められる局面、ってある。

でもさあ、
認知症医療全部が、そういうパラダイム、でいいのか、って話。

なものだから、
「連れてこられる認知症の人」、の診療って、この利害の衝突が最大の問題って思う。

当然、体や薬の問題は、本人の立場に立ったものだから、それはそれとして、だけどね。

本人を抑えるだけでいいの?って課題のことだよね。


「できないこと」から「できること」へ、そして「やりたいこと」へ。
そういうふうにまなざしが希望につながるような認知症医療になるために
いまいったような認知症医療は、まだまだ、進化を遂げなければ、ならない、ってことだね。

あっ、食べ物の話、はさんだら、長くなったので、一旦終わって、つづく。


カテゴリー: 認知症の考え方