もの忘れ、っていうけど その5


で、続き。

それじゃあ、
目の前にいる子供がうそを言っているとはおもえなければ、
どうなるのか。
この話、一気に深刻になる。
厳しい現実を感じる瞬間でもある。

あくまで、典型的な遅延再生障害と認知症の場合、だけれど、
おそらくだよ、この瞬間って、
「自分の認知症の発見」の瞬間でもある。
あくまでも、典型的な場合だけれど。

他人と自分の、自分に対する見当識のずれ、に気づく「自分」。

そういう、自分を、もう一人の「自分」が、見つめている。

ぼくの場合、ときどき、頭のななめうしろに、いる、っていうか、出せ、って。
若いころ瞑想の訓練しているときに、
そうマイケルさんにいわれた。
なんのこっちゃ。
もとい!

ぼく、こういう「自分」のことを、「メタな自分」、って呼ぶ。

そういうメタな自分は、健全。

メタな自分が健全なるがゆえに、
目の前にいる子供がうそを言っているとはおもえなければ、
「自分がおかしい」という認識を持たなければ、メタな自分が保てない。

そして、このとき、もしかして自分は認知症ではないか、と気づく。

ところで、認知症の人には病識がない、っていう人がいる。
でも、そうか。
そうなら、自分の認知症に気づけないではないか。
自らの認知症を、勇気をもって、カミングアウトする人々。
そんな人々もいない、ってことになる。
自ら、受診する認知症の人、っていないことになる。
最近、うちのクリニックにも、認知症が心配で一人受診する人が増えている。
ぼくは、自分の能力を過信しない。
ちまちま検査を行う。
で、しばしば検査上、どうしても、認知症って診断せざるを得ない局面にぶちあたる。
「認知症の人には病識がない」ないのなら、この現象、どう説明できるのか。
メタな自分が健全である限り、ある程度、自分の状況を、自分の内的風景以外にも、他人の自分に対する雰囲気からも察し、
自分のことを把握できるはずなんだ。

そういえば、前頭側頭型認知症なのか、アルツハイマー型認知症のfrontal variantっていう種類の認知症疾患なのかは、わかんないけど、いろんな行動(たとえば、傍から見たら、万引きっていうような「行動」。本人はそうではない、という。「行為」って、本人の目的が内在していて、「行動」って観察結果。そういうふうにぼくは、使うので、こんな表現になった。)をしたことを、あとから、たとえば、妻がそれを指摘することで、自分の状況を把握している、なんて人がいた。んーー、説明不足だな。これだけで、この話、わかる人とわからない人、いるな、と思った。けど、今の本筋でないので、もとい!

うすうす、そうではないか、と気づく自分を、メタな自分が支えている。

自分の、自分に対する認識って、周囲の認識、の周囲の語りの部分にもその足場があるよ、ってこと。

だって、お化粧とか、「人がみて、どうなのってこと」を、すべてとはいわないけど、念頭におくでしょ。

そうやって、お化粧って調整するでしょ。

自分がねらったお化粧の効果が、周囲の認識とずれたら、落ち込むでしょ。

ね、この話、やさしく、書こうと思っても、難しいでしょ。
また、もとい。

自分の認識と子供の認識がずれているとき、
自分の存在の確認のために、先の二つの命題の真偽判定を急ぐ。
でも、気持ちは揺らぐ。
で、目の前にいる子供がうそを言っているとはおもえなければ、
そのせいで、深刻な、存在不安を生む。

ぼくの尊敬する、われらが高橋幸男先生は、
その風景を家庭の中に佇む本人からみれば、「家庭の中の孤独」だといい、
それに伴う本人の心理を、「寄る辺なさ」といい、
自分と周囲の認識の矛盾のことを、「からくり」といった。
と、ぼくは、勝手に解釈している。
(先生、間違ってたら、ごめんなさい。)

ということで、おあとがよろしいようで。


カテゴリー: 認知症の考え方