で、続き。
それじゃあ、
目の前にいる子供がうそを言っているとはおもえなければ、
どうなるのか。
この話、一気に深刻になる。
厳しい現実を感じる瞬間でもある。
あくまで、典型的な遅延再生障害と認知症の場合、だけれど、
おそらくだよ、この瞬間って、
「自分の認知症の発見」の瞬間でもある。
あくまでも、典型的な場合だけれど。
他人と自分の、自分に対する見当識のずれ、に気づく「自分」。
そういう、自分を、もう一人の「自分」が、見つめている。
ぼくの場合、ときどき、頭のななめうしろに、いる、っていうか、出せ、って。
若いころ瞑想の訓練しているときに、
そうマイケルさんにいわれた。
なんのこっちゃ。
もとい!
ぼく、こういう「自分」のことを、「メタな自分」、って呼ぶ。
そういうメタな自分は、健全。
メタな自分が健全なるがゆえに、
目の前にいる子供がうそを言っているとはおもえなければ、
「自分がおかしい」という認識を持たなければ、メタな自分が保てない。
そして、このとき、もしかして自分は認知症ではないか、と気づく。
ところで、認知症の人には病識がない、っていう人がいる。
でも、そうか。
そうなら、自分の認知症に気づけないではないか。
自らの認知症を、勇気をもって、カミングアウトする人々。
そんな人々もいない、ってことになる。
自ら、受診する認知症の人、っていないことになる。
最近、うちのクリニックにも、認知症が心配で一人受診する人が増えている。
ぼくは、自分の能力を過信しない。
ちまちま検査を行う。
で、しばしば検査上、どうしても、認知症って診断せざるを得ない局面にぶちあたる。
「認知症の人には病識がない」ないのなら、この現象、どう説明できるのか。
メタな自分が健全である限り、ある程度、自分の状況を、自分の内的風景以外にも、他人の自分に対する雰囲気からも察し、
自分のことを把握できるはずなんだ。そういえば、前頭側頭型認知症なのか、アルツハイマー型認知症のfrontal variantっていう種類の認知症疾患なのかは、わかんないけど、いろんな行動(たとえば、傍から見たら、万引きっていうような「行動」。本人はそうではない、という。「行為」って、本人の目的が内在していて、「行動」って観察結果。そういうふうにぼくは、使うので、こんな表現になった。)をしたことを、あとから、たとえば、妻がそれを指摘することで、自分の状況を把握している、なんて人がいた。んーー、説明不足だな。これだけで、この話、わかる人とわからない人、いるな、と思った。けど、今の本筋でないので、もとい!
うすうす、そうではないか、と気づく自分を、メタな自分が支えている。
自分の、自分に対する認識って、周囲の認識、の周囲の語りの部分にもその足場があるよ、ってこと。
だって、お化粧とか、「人がみて、どうなのってこと」を、すべてとはいわないけど、念頭におくでしょ。
そうやって、お化粧って調整するでしょ。
自分がねらったお化粧の効果が、周囲の認識とずれたら、落ち込むでしょ。
ね、この話、やさしく、書こうと思っても、難しいでしょ。
また、もとい。
自分の認識と子供の認識がずれているとき、
自分の存在の確認のために、先の二つの命題の真偽判定を急ぐ。
でも、気持ちは揺らぐ。
で、目の前にいる子供がうそを言っているとはおもえなければ、
そのせいで、深刻な、存在不安を生む。
ぼくの尊敬する、われらが高橋幸男先生は、
その風景を家庭の中に佇む本人からみれば、「家庭の中の孤独」だといい、
それに伴う本人の心理を、「寄る辺なさ」といい、
自分と周囲の認識の矛盾のことを、「からくり」といった。
と、ぼくは、勝手に解釈している。
(先生、間違ってたら、ごめんなさい。)
ということで、おあとがよろしいようで。
初診のご予約
直接お電話いただくか、WEB予約フォームをご利用ください。