作業記憶の部分を差し引いて考えてみる。
すると記憶しづらいが見えてくる。
記憶できていないものは忘れようがないのである。
屁理屈に聞こえる?
ちゃんといいかえる。
「忘れた」体験を経ていないのである。
わかりづらいですかね。
直接は、記憶のメカニズムが謎なのでわからない。
でも現象(人と人の相互のやりとり)を見ればわかる。
娘:「もう、お母さんたらぁ。何度言えばわかるのよ。もぉ。」
母:「えっ?」
娘:「ん、もぉ!ったく。通帳は私が持ってるっていったじゃん!毎回じゃ、そうじゃんん。」
母:「そうよ。」
娘:「えーーっ。なんで探してんノォ。なんでヨォ。」
北斗の拳のセリフのように、「あ」」に点々つけるとか、書けないけれど。
娘は苛立ちのあまり、セリフがすっ飛ぶ。
娘は、自分の記憶は事実に基づいている、という強い確信がある。
そして母親に、何度も説明しているのに。
しかもその度に母親は「わかった」と了解もしているのに。
どうして忘れてしまうのか。
しかも最近正しいことをいう娘に対して母親は嫌悪が芽生えてきた。
診察室で母親は「私、あの子に怯えてるんです」
娘のいない隙に小さい声でポツリと僕にいった。
多分よくありそうなシーン。
でね。
娘の信念の中で一点誤っているところがある。
それは「忘れている」と思っているところだろう。
母親は「忘れてはいない」のである。
ちゃんと言えば、人々が普通想起する「忘れる」という体験を経ていないのである。
ちょっと思考実験しましょう。
上のやりとり。
本当に「娘のいったことを忘れた」という設定で話を組み替えてほしい。
誰でも想像できるであろう。
このやりとりとは全然違う顛末になるはずだ。
結果母親は多分ですが。
まあ違う場合もあるけどね。
「ごめんね。そうだったね。」
とかいうはずである。
娘もその言葉を聞けば。
「こちらこそ。私の言い方が悪かったから。ちゃんといっておけばよかったね。」
などと美しい展開になるはずである。
まあ感じのいい親娘であれば、だけど。
娘の期待する展開はそれ。
でも現実はちっともそうなっていない。
なぜなら「忘れたという体験があるはずだ」という前提が崩れているのですよ。
なぜ誤った前提をそこまで固持するのか。
「もの忘れ」という言葉が流布しているせいで生じる不幸ですね。
はずみ車みたいなもんで歯止めが効かない。
この現象。
暗に「忘れる」と思っちゃう。
「忘れた」と「記憶しづらい」の違い。
意外に大きいのです。
これからの人生。
不幸に貶めるものかもしれない。
配慮という文脈でもう少しだけ展開させてみようと思います。
木之下徹拝
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