憧れの、藤田和子さんから、コメントもらった。
なんと、ぼくと、同じ学年。
うらやましー っしょ。
「そうなんですよね。
物忘れとかいう単純な感覚とは違う。」
ありがたい。
でね、この話って、いきつくとこ、そういうことなんだと思う。
たとえば、老化によるものわすれ、と、認知症によるものわすれ、が違うってな話。
よくあちこち、書いてある表、あるじゃん。
結婚式で、なにを食べたかを忘れるのが、老化によるものわすれで、
結婚式で、食べた事自体をわすれるのが、認知症によるものわすれ。
ってやつ。
しってるでしょ。
あれ。
でも、ね。
あのように、外から説明した感じで、理解したつもりになっちゃあー、いけないんだ、って最近思う。
なにせ、われらが藤田さんが書いているように、「違う」っていうんだから。
これって、あれだよね。
コーヒ飲んだことない人に、一生懸命、コーヒの味、説明するの、無理っしょ。
たぼこ吸ったことない人に、たばこって、どう?って聞かれても、説明しようがないしょ。
やっぱ、キャビンよりもメビウス?、っていわれても、理解できない。無理っしょ。
感覚的に経験ない、ことって、伝達できない。
クリスティーン・ブライデン、っていう、人。
オーストラリアの認知症の人。
認知症でない状態と認知症である状態を、認知症になると、ふたつの状態を知ることができる。
的な話があったと思う。
これは、すごいこと。
ふたつの世界観を経験できる、って、認知症について、こんなに力強い言葉ってめったにない、って、知った当時思った。
でね、また、世間では、「認知症を正しく理解しなくてはいけない」、って、専門職の人々が講演会などを通じて、よく言っているよね。
気持ちはよくわかる。
でもね、「認知症を正しく理解する」って、こういう話を通じて、考えると、すっげー、難しい、って思う。
そして、このこと。正しくは、認知症にならないかぎり、知り得ない。
しかも、人によって、その状況が違う。
(というか、同じ、という保証はないから、そう思う。こういうのって、難しくは、クオリア問題って、いうんだろうね。クオリア、って、ウィキに、「心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。」ってあった。ふぎゃー、っていう感じの日本語だけどね。)
だからといって、認知症をテーマにする限り、「正しく理解すること」を諦めるわけにもいかない。
なにもできなくなっちゃう。
ここは、どうにか、言葉を尽くすしかない。
感覚的に、似た体験や代替するものがあれば、別なんだけどね。
そんときは、それを組み合わせて、それを足がかりして、どうにか説明する。
バターと醤油とご飯まぜて食うのって、うまいっしょ。
それ自体、食べたことがない人でも、バターと醤油とご飯をばらばらに知っていれば、それって、なんとなく、想像できる。
そういうテーマなら、バター醤油ご飯の味はクオリア、っていったって、
バターを食べた時のクオリア、とかは、いじらないで済むし、
どうにか想像の範囲内。
だから、ぼくは、当事者研究、が必須で、重要だと思うのです。
本人同士が紡ぐ、認知症の体感、についての言葉。
ぼくらは、耳を澄まして、聴くしかない。
ホントの具体を知ることは、難しい時、ってどうするか。
そういう話を、総括して、理解できるように、抽象度を上げる手がある。
すると、言葉にできる、ときがある。
ここまで、書いていたら、長くなった。
遅延再生障害の内的風景。つづく。
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