車椅子の人が立ち往生しています。
そばにはあなたしかいません。
どうします?
無視する?
まあね、忙しいからね。
手助けにいく?
そういう人の方が多いかも。
いきなり罵声を車椅子の人に浴びせる人は少ないでしょうね。
まして車椅子ごといきなりひっくり返すようなことはしないよね。
そういう社会環境。
3段階あったね。
助ける/無視/罵倒。
今の日本。
助ける、が多そう。
でも。
「もの忘れ」から連想される社会環境。
信じがたいかもしれない。
えー大げさなぁ、というかもしれない。
実は罵倒、車椅子をひっくり返すに等価なのです。
なぜって?
説明しましょう。
前のブログで説明してきたように記憶しづらさ。
「忘れる」体験を経ていない。
科学っぽく演繹的(積み上げ方式)に得られた結論ではない。
現象(この前のブログの母娘の会話)から帰納的に類推される図式です。
母親は「忘れて」はいない。
記憶がしづらいことと忘れることとは等価ではない。
見かけからは一見区別できないかもしれない。
何が?
「記憶しづらさ」と「忘れっぽさ」です。
でも母親の返事。
「えっ」
「そうなの?」
なのだ。
「忘れる」を体験した人の返事ではない。
しかし娘は無理やり
「なんども言ったでしょ!」
と攻める手を止めない。
足が悪い人に「ダッシュ!」と言っているようなもの。
無視(何もしない)より悪い、というのはそういうこと。
足がわるい。
目が悪い。
耳が遠い。
それ相応の配慮があって然るべき。
そう考えたのは障害者権利条約。
合理的配慮の源。
どこに障害があるかを同定できて(わかって)初めて配慮を構成できる。
でも受け手。
この場合は母親。
娘がその障害のありかがわかっていようがわかっていまいが。
受け手(母親)にとっては「できないことに対して罵声を浴びせられたこと」に変わらないのです。
ね。
知らなかったでは済まされないことなのですよ。
でも僕の診察室ではこの話すると大抵本人も付き添った家族も悩み始める。
だから多くは知らないんだなあ、と思う。
ところで、こんな風に障害のありかを(記憶しづらいを忘れたと)間違えてしまう原因って何でしょう。
主に僕は「もの忘れ」という言葉で創られた社会環境なのではないか。
そう思わざるを得ないのです。
あっ。
注意点。
海馬やその周辺が萎縮する。
記憶のしづらさがある。
というのは、今典型的とされている。
けれど認知症全体の不自由さの一部です。
認知症であれば皆そう。
ではない。
注意の障害を中心とするものもある。
身体症状、例えば、血圧の変動や便秘が強くなる、など自律神経の障害を伴うものもあったり、体の動きがスムーズでなくなったり、やたら転びやすくなったり、不自由さは十把一絡げにはできません。
ここでは比較的多そうだと今思われている、記憶しづらさの話に限定して考えています。
ぜひご留意を。
もとい。
同じ文章また書きます。
どこに障害があるかを同定できて(わかって)初めて配慮を構成できる。
ぱっと見わかりやすい障害もあるけれど。
足をひきづって歩いているとか。
白杖を持っているとか。
そういうのわかりやすいじゃないですか。
でも認知症に伴う認知機能の障害はわかりづらい。
なにせ症状ではなくて、機能に関する障害なので。
えっ、何のこっちゃ、わかりづらい?
中核症状とか教科書に書いているのもよくないなあ、と思うのです。
中核症状のほとんどは症状ではない、という見方もできます。
例えばね。
記憶障害って症状?
違うでしょ。
厳密には症状の定義に寄るのですが。
症状って、一般的には、はたから見てわかりやすい表現型。
血出ているとか。
気持ち悪い、とか。
でも記憶しづらさは機能の変化。
そう考えた方がわかりやすい。
学校の試験みたいなものをやらないとわかりづらい。
黙ってりゃ、できないこと、バレない。
そういう不自由さ。
外から見てもわからないから、なおのことと、その不自由さをなお締め上げる視線が生まれる。
ここまで論じてきたのは記憶しづらさ、だけ。
もっと様々な認知機能の障害について考えないといけないですね。
しかもこうやって腑分けの作業をしないと配慮を構成できないのです。
合理的配慮の手前の問題。
だって配慮の対象を同定できないと配慮しようがないのだから。
世間の今の認知症像は、悲惨。
僕が思うに認知症像って、みんなが思っている認知症の不自由さの平均値みたいなもの。
でも、記憶しづらさと忘れるの区別もつかない状態でその平均値を作っても実像とはずれる。
世間によくあるけど。
認知症の世界って何?
認知症の体験って何?
それってずれてない?
それって一部の人で大勢の認知症の人の話なの?
それってそもそも本当の話なの?
ってつい思ってしまう。
僕には、まだそこまで抽象化する力はありません。
つまりですね。
今僕がそんな形で認知症像を提示すれば必ず間違える自信がある。
少しで多く知りたければ徹底して不自由さを抱える人の体験を聴き込むしかない。
でも実はそれだけでもだめ。
世間では認知症の人に対する偏見があるという。
しかしその偏見は認知症の人の中にも宿る。
今回のテーマにおいても僕が出会った人々。
何人も「私が忘れっぽくなったからダメなんですね」というんですよ。
困ったことに。
だから徹底した聞き取りとは、本人の抱えている偏見すら見抜けないと意味がない。
だから一方向の作業ではその不自由さは計り知れない。
聞き手もそこに参加しきって相互の対話と議論を通じて初めて本当の姿が時々見えてくるのかも。
チラ見。
僕は、こういう態度こそが、当事者研究の源と思っています。
単純に本人の話を羅列すれば、得られるようなものではない。
認知症とともによりよく生きる。
サポーティブな社会環境を作るのはまだまだ僕らに試練が必要。
寄り添う、とか、優しさ。
そりゃ、ありゃーいいけれど。
みんながみんな持ち合わせていない。
そして、親切の押し売りも負担。
介護負担は知られているけれど。
「介護され負担」だってもある。
しかも介護負担は公言できるけれど。
介護され負担は公言できない。
圧力がある。
だって、文句言えないでしょ。
命握られてんだから。
本当は魚ではなくて野菜が食べたかった。
一生懸命、魚焼いてくれた人に文句も言えないし。
ありがとう、って食べるしかないよね。
生きていくにはさあ。
ねっ。
だからやさしい、寛容な気持ち、寄り添う気持ち、だけでは
済まされない課題が見えてきました。
認知症の人を障害者とするか否か、という議論があるけど。
僕には難しいのでそれはおいておいて。
せめて合理的配慮は、認知症の人に対して導入した方がいいと僕は思うのです。
今回の大綱ではガン無視されたけど。
やさしさや気合だけでは乗り越えられない壁を少しでも穿つことができるのでは、という期待があるからです。
今認知症の人、これから認知症になる人にとって社会環境の整備は急務の課題ですよね。
人生の主体者として自分の人生をいききれる保証が欲しいのです。
そういう保証をするために、社会環境を構成する一部には合理的配慮という考え方は不可欠だと思うのです。
まずはその手前。
配慮の対象をもっと明らかにする必要があると思うのです。
その対象の同定作業。
でも現状。
「もの忘れ」の話のようにまだまだ不十分なのです。
だからこの話。
そういう大きな話です。
だからこのシリーズの最初に書いたように、大げさな話なのです。
お付き合いくださいましてありがとうございました。
木之下徹 拝
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